ハミングバード プログラムの寄付の先にあるもの。被災した青年の夢


「私は、私にできることをしているだけ」──小さなくちばしで一滴ずつ水を運び森の火を消そうとしたハチドリの物語に想いを重ねた「ハミングバード プログラム」。一杯のコーヒーから、経済的困難にある若者・子どもたちに学びの機会を作るスターバックスの寄付プログラムです。

東日本大震災の翌年からスタートし、これまでにのべ78万人のお客様と、震災で親を亡くした子どもたちの進学を支援する「みちのく未来基金」を中心に、1億7千万円以上の寄付を届けてきました。2020年から寄付先を広げ、今年で10周年を迎えます。

スターバックスがお客様とともに運んだ「ひとしずく」は、10年続けてきた今、どんな波紋を広げているのでしょうか。寄付の先にいるひとりの若者、みちのく未来基金のサポートで大学生活を送った遠藤洋希さん(27歳)の語りをお届けします。

あたり前が、あたり前じゃなくなったあの日

こんにちは、遠藤洋希です。大手コンサルティング会社から転職し、現在はスポーツの課題をテクノロジーで解決するベンチャー企業で働いています。でも、スポーツもITもあくまで手段であって、僕には人生をかけて「やりたいこと」があります。

それは、なんらかの不自由を抱える人たちが、やりたいことを見つけて、夢を追い求められる自由を手にするきっかけと環境を作ること。世の中には、多くの人が“あたり前”だと思っていることが“あたり前じゃない”環境で生きている人がいます。そういう人たちの世界が広がっていくような仕組み作りに携わっていきたいんです。

こうした想いを抱くきっかけとなったのが、11年前の東日本大震災でした。宮城県南三陸町で、父親と祖父母と4人で暮らしていた僕は、当時高校1年生。1時間半かけて通っていた隣町の気仙沼高校で被災しました。

高校は高台にあったので無事でしたが、何が起きているのかわかりませんでした。気仙沼の同級生の家で2晩を過ごし、南三陸に戻ったのは震災から3日目のこと。地元に入った瞬間、自分は何も変わらないのに、ぽんっと別の世界に飛ばされた感覚でした。よく知っている土地が全部瓦礫で、家もないし、ガスも水道も電気も、食べ物もない。何もないんです。衝撃的でした。

そこからは、崩れたけどなんとか暮らせる親戚の家に寝泊まりして、川から水を引いて、山から木を拾い集めて燃やして暖をとり、瓦礫になった自宅付近で醤油とごぼうを見つけて煮て食べたこともありました。

その間、同じ高校に通う幼馴染と避難所を周って家族を探しました。祖父母は無事だったけど、父親は見つからない。幼馴染も7人家族のうち弟にしか会えなくて。2週間経ってもう見つからないんじゃないかと思い始めて、1ヶ月経つ頃にはもうだめだろうなって。だんだん、徐々に受け止めていった感じです。いまだに父親は行方不明だけど、死亡届は出しました。

震災で家も生活も父親も、これまで“あたり前にある”と思っていたものがなくなってしまう体験をしたんです。

大学で学びながら見つけた、自分が心底やりたいこと

生活もままならない中、驚いたことにGW明けから学校が始まりました。通う道も手段もないし、気仙沼高校には戻れないだろうと覚悟していたけど、震災の日に泊まらせてくれた同級生の家族が「家から通いなさい」と言ってくれて。そこから2年間、家族を亡くした幼馴染と一緒に卒業まで下宿させてもらいました。本当にありがたい。僕にとって気仙沼の家族です。

学校の体育館は避難所だったけど、部活も授業もこれまで通りで。大学には行きたいけど、親もいないし無理だろうと思っていたら、進路指導の先生が「奨学金があるから大丈夫だよ」と教えてくれたんです。それが『みちのく未来基金』でした。正直当時はよくわかっていなくて、「そうなんだ、大学行けるんだ」くらいの気持ちでした。

ちょうど震災ボランティアで来ていた東京の大学生に進路相談できる機会があって。それまで僕はどうせ地元で就職するだろうし、やりたいことがあっても自分の気持ちに蓋をしていたんです。でも震災でライフラインを失う経験をして、実生活に関わる役立つ仕事がしたいと強く思うようになった。水道やガスも大事でしたけど、中でも電気が通ってスマホやテレビから流れる情報に初めて接続できた時に、目の前の世界が一気に広がったと感じ衝撃を受けた。ようやく被災地で何が起きているのかわかった。だから大学では電気工学を学ぼうと決めました。

なんとか受験勉強をがんばって、芝浦工業大学に合格。ほかにも受かった私大があったんですが、ここがいちばん実践的な研究ができると思ったんです。学生時代は、電気自動車を動くバッテリーと捉えたエネルギーの研究をしていました。3年生の時に休学をして、日本とヨーロッパの理系学生の交換留学プログラムに参加し、1年間フランスに留学。卒業後は、社会人大学院で「システムデザインマネジメント」を学び、オランダにも留学しました。

こうして僕は、大学と大学院合わせて6年間、学んで動いて考えて、自分が本当にやりたいことを見つけ、今もその夢を追い求める途中にいます。

学習資金と人とのつながり。受けた恩を送っていく

この学びを支えてくれたのが、みちのく未来基金です。学費はすべて出してもらいましたし、何より大きな影響を与えてくれる人との出会いをもたらしてくれました。

閉じた世界にいた僕は、震災後、価値観をがらっと変えてくれるような何人かのキーパーソンに会っています。例えば、震災ボランティアで触れ合った家族が本当に幸せそうに見えて、自分の人生を楽しんでいいんだって初めて気づいたり。上京してから出会ったみちのく未来基金の理事もスタッフもサポーターもみちのく生(※奨学金を受けている学生)も、自分の人生を楽しんだ上で、誰かのために動いている。刺激をくれる人たちとのつながりは何よりの財産です。

もちろん経済面でも、みちのく未来基金がなければ、僕は大学には行けなかった。実は、僕は3年前に悪性脳腫瘍になって余命宣告を受けたんですが、その際に叔父が話してくれたんです。父は生前、僕の大学費用を稼ぐために転職を考えていたようで、おそらく震災がなかったら、たぶん大学には行けず、地元を出ることもなかったはずです。だから、震災に関係なく、経済的な困難から学びを諦めてしまう子どもたちもたくさんいると思います。

僕は震災ですべてを失ったけど、支えてくれる人がいたおかげで、土地のしがらみやお金の心配から解放されて、自分が学びたいこと、やりたいことと向き合うことができた。だから自分が受け取ってきたたくさんの恩を、別の誰かに送っていきたいんです。恩返しではなく、恩送り。

「助けてあげる」のではなく、同じ目線で一緒に考える

とはいえ震災当初から、今でも「震災遺児」だと一括りにして可哀想な目で見られることの気持ち悪さと苛立ちはあります。中にはよかれと思った行為で僕たちを傷つけて、勝手に満足して去っていった大人たちもいますから。助けてあげるという上から目線で、支援する側とされる側に線を引くような態度で。

みちのく未来基金には、そういう押し付けが一切ないんです。上下ではなく、僕らと横並びになって一緒に考えてくれる。話を聞いてほしい時はただ聞いてくれる。調子に乗っている時は怒ってくれる。生き急いでいる時は少し休んだらと言ってくれる。がんばれとは言わずに見守ってくれているので、僕自身はプレッシャーに感じたことはありません。

あるサポーターの方が言っていたことなんですが、みちのく未来基金は例えるなら、支援を受ける僕らみちのく生は”きょうだい”で、スタッフは”いつも受け入れてくれる親”で、寄付者やサポーターはなかなか顔を見られない”出稼ぎに出ている家族”のような存在なんだと。すごくいい大家族を得たと思っています。

今年から僕はみちのく生で初めての理事に就任しました。なぜかと言うと、震災から10年以上経って、当時幼かった子どもたちが大学生になるので、震災の記憶が曖昧なんですね。でも親を震災で亡くし心に空白がある。そういう子どもたちと近い距離にいる立場として、どんな支え方ができるのか。これからのみちのく未来基金のあり方を僕なりに考えていきたいと思っています。


スターバックスでは、遠藤さんの学びを支えたみちのく未来基金に10年間、お客様とともに寄付を届けてきました。パートナー(従業員)とお客様は、一体どうやって想いをつないできたのか。結びに、店舗に立ってスターバックス カード「ハミングバード」を届けてきた、千葉県柏市内の店舗のストアマネージャー(店長)の永妻さんの声を紹介します。

ハミングバード プログラムに笑顔で取り組んできた全国のパートナー(右が永妻さん)

コーヒー一杯から、自分たちにできることをするだけ

「大事にしてきたのは、このプログラムに取り組む意味合いをパートナーと一緒に考え、自分たちの言葉で想いをお客様に共有し、仲間を増やしていくこと。期間中は、パートナー一人ひとりがどんな想いを持っているのかを汲んだ上で、お客様に提案する際に勝手なフィルターは通さず、みなさんに継続的にお声がけしてきました。

コーヒー一杯から、社会にちょっといいことができる。その場ですぐにアクションにつながらなくても、ささやかな行為から自分たちにもできることがあると知ってもらえたら、と思っています」

できる人ができることをする。その「ひとしずく」が社会を、その中で暮らすひとりの人生を、よりよい方向に変えていく力になるかもしれない。スターバックスは、10年を超えた今年も、ハミングバード プログラムを続けていきます。